青い梟の輪郭

感じたことを括り直すための内的な語りや対話です。

本物、構成主義、動機についての対話#3

yurulogue.hatenablog.com

(上記からの続き)

 

おうむ?ナウシカの?……王蟲は、自分の機能を最大限に使って、粘菌変異体を苦しみから救おうとしてたじゃん。

 

確かに表面的にはそういうことが起きてたかもしれない。ただ、それは核心じゃない。重要なことは、そういう選択をする理由なんだ。つまり、動機ってやつ。これを見落としたら駄目だ。

 

核心とか動機とか、それこそ確認のしようがないものでしょ。

 

動機は、努力とか美的な核とかとは違う。まず、「本物の音楽」だろうと「本物じゃない音楽」だろうと、動機はそのどちらをも支えうるという意味で、概念としての懐が大きい。で、さらに、これが重要なんだけども、動機ってのは常に宛先ありきで、個人の内側で完結するようなものじゃない。関係の中にしかないんだそれは。

 

よく分からないけど、とにかく想定しなきゃ見えないって時点で、努力も動機も同じでしょ。

 

それはそうなんだけど、同じではない。その二つの間には、大きな壁がある。それも二枚ぐらいの分厚い壁が。

 

なんで二枚なの?

 

努力というレンズから動機というレンズに至るまでに、二回ぐらい思考の転回を必要とする、ような気がする。

 

ような気がするってことは、さらにもう一枚ぐらい壁があるんじゃないのそれ。

 

なるほど。その話おもしろそうだけど、面倒くさそうだから、今はやめとく。

 

確かに無駄にめんどくさそうだからいいよ飛ばして。

 

無駄ではないけどな。……まあとにかくさ、話戻すけど、例えば、幼い子どもが必死に鉛筆やラケットを握るときとか、天才科学者が寝る間も惜しんで研究に明け暮れるときとか、あなた達がそうまでするのは何故ですかって聞くと、大体みんな、自分の強い意志みたいなのをアピールしてくるわけだけどさ、あれ嘘だと思うんだよ。

 

いや、別に嘘じゃないでしょ。というか、話戻すとか言って話変わってるじゃん。

 

変わってない。とりあえず想像してみてほしい。意志とかいったん脇に置いといてさ、自分のやってることに対して、もし誰一人として興味を持ってくれなかったとしたらどうなのか、と。否定的な反応も含めて、何の反応も得られなかったとしても、それでもそれは自分の意志ですと言って続けると思うか?

 

人がどう思うかとか気にせずに、ただそれが好きというだけでマイナーな趣味に没頭する人だっているでしょ。あと、誰のために自分がそれやってるのか分かってない人とかもいるでしょ。

 

好きかどうかとか、惰性的かどうかなんてどうでもいいんだよ。重要なのは、どんな気の持ちようであれ、そのとき、その人が、本当にどのような宛先も見据えてないのか?ってことだ。実在する人物ではないとしても、過去の誰かとか、未来に現れるであろう誰かとか、目の前のモノとか、神とか仏とか、もしくは地面とか空とか海とか。もっと言えば、酸素とか、時計とか。あるいは、それを意識できていないこともあるかもしれない。でも、そういうのも含めて、色んなレベルにありうるどのような宛先も想定せずになんてことありえないと思うんだよ。で、その宛先に向かう方向性というか志向性みたいなものが動機ってわけよ。

 

……それって結局、すごく当たり前のことを言ってるだけじゃないの。

 

これがすごく当たり前のことだと思うんなら、「できる」ことだけに価値を置くのがちょっとおかしいことだと気付けよ。

 

いや、そうはならないでしょ。むしろ君の言ってることを前提にしたら、より一層「できる」ことに価値が置かれるよ。要は、親が褒めてくれるから子どもはラケットや鉛筆を握るとか、あるいは、手は持続可能性を求めてよりよいラケットの握り方を勝手に模索するとか、そういうことが言いたいんでしょ?それって結局は、「できる」ことを目指すわけじゃん。

 

半分は同意する。ただ、動機が予期してるのは、褒めてくれるっていう肯定的な反応だけじゃない。怒られるとかそういう否定的な反応も含まれる。手には血豆ができることだってある。