本物、構成主義、動機についての対話 #2
(上記からの続き)
「本物」から目を逸らしてる限り、進歩は叶わないよ。
「本物」を定義するのがその中身だという幻想に囚われてる限り、自由は得られない。
いやいや、もっと柔軟に広く世の中を見た方がいいよ。
面白い。そっちからはそう見えるのか。
どっちからでもそう見えるよ。
どっちからでも、ね。
あのさ、自分でも分かってると思うけど、君はつらくて面倒なことから逃げたいだけでしょ?努力して「本物」を体得することは、重要なことだよ。それによって誰かを助けることができるし、誰かを喜ばせることができる。そうしないことがいい結果を生むってことも無くはないだろうけど、基本的な方向性として、進歩し続けることはひとつの正義であり美徳だよ。
あのさ、自分でも分かってると思うけど、そういう考えはたまたま時代の主流になりえただけであって、この世の真理でもなんでもないんだよ。にもかかわらず、それによって無駄に苦労を味わった人たちがどれだけいるか考えたことあるのかよ。何より許せないのは、音楽とか、和菓子とか、いやもっと言えば、生きることとか、本来はどこまでも自由であるべき領域にその思想を当たり前のように持ち込んで判断しようとしてることだよ。助けることができる?喜ばせることができる?何かをすることができるかどうかなんて、そんな上っ面な基準はどうでもいいんだ。本当に大事なことはもっと別のところにある。
それは、歴史への冒涜だよ。できないことが悪いことだとは思わないけど、できることには価値が与えられて然るべきだよ。実際に、誰を喜ばせることもできない音楽には、どんな需要もないでしょ。それは別に悪ではないけど、価値もない。そういうものなんだよ。
つまり、何もできない奴は生きるなと、そう言いたいのか。
だからなんでそんな話になるわけ?
どうやったってそういう話になる。だって、できないことは罪なんだろう?
罪だなんて言ってない。ただ、できることに価値を置くことは間違ってないって言ってるんだよ。それで、そう考えれば、ひとりひとり何ができるのかを皆で探すことにつながっていくでしょ。仮に自分は何もできないと思ってる人がいたとして、その人のできることを一緒に見つけることができれば、そこには大きな意義があるし、共に生きることにもつながる。それはできないことから目を逸らすことじゃない。できないことを受け入れて初めて、できることを見つけることができる。これのどこがいけないわけ?
「一緒にできることを探しましょう」と言うことと、「これができないのは罪です」と言うこととは何が違う?まったく同じじゃないか。
君はさ、苦境に置かれた人のことを少しでも想像したことがあるの?例えば、君だって目が悪かったりするでしょ?で、その事実を認めて、よりよく見ることが「できる」ことを実現するために眼鏡をかけるんでしょ?今の君の意見は、つらい想いをしてる人たちのことをまったく考えてないよ。
何ができようと、何もできまいと、そんなことはどうだっていい世界ってのを想像したことはあるか?ときには眼鏡をかけるかもしれない。でも、それは眼鏡をかけないという選択と同等なんだ。どうしてそういう世界を見据えない?
そんな夢みたいな世界、本気でありうると思ってんの?あまりにも非現実的すぎるよ。第一、自然界にも反してる。昆虫の美しさは、機能と形態ありきのものでしょ?機能を発揮することができなければ、死ぬ確率も高くなるだろうし。何ができようとできまいとどうだっていいなんてこと、どんな生物も反対するに違いないよ。
つまり、他の個体に比べて上手く鳴くことができることを志向するスズムシとか、もしくは、上手く鳴くことができなくて苦しんでるスズムシとか、そういうのが存在すると思ってるのか。
存在するでしょ。
そんな程度のことに昆虫が興味を持つと、本気でそう思ってんのか。
いや、生存に関わってるんだから当然でしょ。むしろ、それが最大の関心事だよ。生きるために克服すべき課題と言ったっていい。
噂の発達課題ってやつか。……例えば、王蟲がただの一度でもそんなことに関心を持ってた場面があったか?
(以下に続く)