青い梟の輪郭

感じたことを括り直すための内的な語りや対話です。

看板のない世界への一歩

スナフキンは看板を嫌う。

現実としての「意味」が固定されるのが嫌なんだろうと解釈できる。

たとえその「意味」が未来の生存を保障するものであったとしても。

「意味」は絶えず変化に晒されていて、未来はいつだって予測できない。

スナフキンが好むのはきっとそういう世界だ。

 

人は「意味」を括りたがる。

見たもの、聞いたもの、触ったもの。

それらが何物なのか、その正体を明かしたがる。

でなければ、未来を選び取ることができない。

生存の可能性を高めることができない。

つまり、それは生きることそのものだ。

 

このことに異論はない。

ただ、その「意味」を固定してしまうのは違う。

 

「近寄るな!危険!」

でも危険な物もときにはフレンドリーだったりしないかな。

 

「あいつは無口だ!」

お喋りも無口も状況によると思うけど。

 

「これは不味いです!」

お前の味覚の問題じゃないのか。

 

固定の背景には、不動の「意味」がその人や物の内部にあるという誤解がある。

加えて、事物や他者を見ているこの「私」の不安定さに関しては見えないふりをするというおかしな癖もなかなかとれない。

 

何かについて知るということは、中身を明かすことじゃない。

その物や人と、他ならぬこの「私」が対話して今ここで「意味」を作るということだ。

そして、作られた「意味」は対話の中でどんどん書き換えられていく。

それは対話の宿命であり、自然な営みだ。

すなわち、事実は対話の数だけ存在する。

 

固定された「意味」によって整えられた予測可能な環境で安寧たる日々を送ることでなく、「意味」を書き換え続けるスリリングな日々を楽しむことこそが生きることだとすれば、人の抱いてよい夢とは一体どのようなものとして現れ直すのだろうか。

 

時間をかけて真剣に考えてもいいんじゃないかと真剣に思う。

 

 

ホムサは、スナフキンのテントの前を通るついでに、きいてみました。

「きみは、いつ、いなくなってしまうの」

「さあ、そいつは、ぼくにはわからないな。そのときしだいさ」

と、スナフキンは答えました。

            ―――『ムーミン谷の十一月』講談社文庫p.296