青い梟の輪郭

感じたことを括り直すための内的な語りや対話です。

本物、構成主義、動機についての対話 #1

よく「これこそが本物の音楽だ」とか言うけど、そう言うことによって見下される側が生まれてしまうのがつらい。

 

言わんとすることは分からないでもないけど、なんだかんだで「本物の音楽」に感動するのは確かでしょ。

 

楽器初心者のぎこちない演奏に感動することだってある。

 

そういう場合もあるだろうけど、ただ、より多くの人に愛される音楽とか、誰が聴いても讃えずにはいられない音楽とかってやっぱりある。

 

つまらん世の中になったな。

 

ずっとそういう世の中だよ。だからみんな「本物」を志向しながら頑張ってんじゃん。

 

…………「本物のなんとかが」って議論ってさ、基本的に、「誰がどういう状況でどうしてそれを本物と見なすのか」っていう観点が抜け落ちてる。恥ずかしくないのかね。

 

いや、別に抜け落ちてないよ。

 

まあ、特定の文脈においては、確かにあるんだろう。「本物の音楽」とか、あと例えば「本物の和菓子」とかってのが。でもそれらはぜんぶ文脈に依存してる。それそのものが絶対的に「本物」って話じゃない。だからそこを無視するなよと言いたい。

 

音楽も和菓子も、「よりよいハーモニー」ってのは確かにあって、それを構成するルールが昔から今の今まで伝統的に受け継がれてるという現実も確かにあるわけでしょ。前衛的なものにしても、ある意味では、伝統を前提にして成り立ってるわけだし。もっと言えば、そのハーモニーは生物や宇宙の仕組みにも通ずる可能性だってある。だから、それそのものが持つ質というか、力みたいなものはやっぱりあると考えてよくない?

 

いやだからね、そういう本質的な何かがあるという事実は、誰かが見て聴いて味わって初めて成立するわけよ。鑑賞者がいなければ、何も無いのと同じなんだ。早く気が付け。現実から目を背けるな。

 

いや、実際に多くの鑑賞者がいた上で、抽象的というか、神秘的というか、美的な核みたいなものが認識されるわけでしょ。それでいて、それらは実際の努力の上に成り立ってることが確かにある。努力は嘘をつかないよ。

 

美的な核が認識される?どうやって?ある奏者が「本物の演奏」をするとき、その人の内面世界が現れるとでも言う気か?そんなことありえない。奏者の内部を見ることなんてできるはずがない。

 

そんなのただの屁理屈じゃん。

 

屁理屈というか、とにかく、単独の何かが何らかの特性を宿してるという見方は危ないと言いたい。なぜなら、悪いのは個人だという話に行き着く。「お前の努力が足りない」とか「お前の才能がない」とか。

 

「本物」にたどり着くためには、努力と才能はどうしたって必要だよ。

 

それが差別と排斥の生みの親だと、なぜ気が付かない。

 

そんな話にはつながらないでしょ。たくさんの人たちの努力を否定するつもり?そもそも「本物」っていうのは何かを差別したりしないよ。もしそういうことが起きるなら、それは「本物」じゃないってことだよ。

 

何だそのナルシスチックな世界観は。気味が悪い。

 

一回、「本物」を味わってきたらいいと思う。そうしたらきっと分かるから。

 

……ああ、なんだかね、絶望的すぎて逆に腹を括ったよ。

 

(以下に続く)

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