青い梟の輪郭

感じたことを括り直すための内的な語りや対話です。

虚無との対話

事実なんてのは語る人の数だけある。

仮に神様から見れば同じひとつの現実も、人によってどう認識するかは様々だから。

色んな異なる事実があるに決まってる。

そのうちのどれかひとつだけが正しいなんてことあるわけがない。

 

という意見もまた数ある事実のひとつにすぎない。

 

 

つまり、本当は何ひとつ正しいことも間違ったこともない。

頭じゃ分かっていたけど、ここのところすごく、なんというか、体感する。

何もかもどうでもよくなってきてる。

なんて虚しいんだ。

 

 

という意見もまた数ある事実のひとつにすぎない。

 

 

そうか、これが虚無ってやつか。

 

 

という意見もまた数ある事実のひとつにすぎない。

 

 

何でもそうやって無に帰してしまう。

 

 

という意見もまた数ある事実のひとつにすぎない。

 

 

うるさいな、黙れよ。

 

 

何を言おうが何を考えようが正しくもなければ間違いでもない。

 

 

それでも、生かされてる。

 

 

という意見もまた数ある事実のひとつにすぎない。

 

 

生死もまた言葉が作る事実でしかない。

 

 

そう、何を言おうが何を考えようが正しくもなければ間違いでもない。

 

 

言葉で説明することは恣意的で後付けでしかない。

本当はどこにもどのような区切りも存在しない。

 

 

そういうことだ。すべては認識上の話にすぎない。

 

 

でも、だとしたら、そういう区切りがないということを肌で感じたときに味わう言葉にならない感動だとか、その一方で、分け隔てられることがもたらす言いようのない苦痛というのは確かにあるんじゃないか。

 

 

という意見もまた数ある事実のひとつにすぎない。

 

 

このことを言葉で説明するかぎりはそうなんだろう。

ただ、最初にそれらの経験があるのだとしたら。

なんとかして経験を共有しようとしたとき、あるいは理解しようとしたとき、言葉というものが要請される。

そして事実が出来上がる。

 

 

共有だとか理解だとかも言葉が作る説明原理にすぎない。

 

 

そう。そもそも言葉なんて儚く脆い紙吹雪みたいなもの。

まとまっては分散し、紙つぶてになったかと思えば燃えて消える。

説明原理なんてたまたま生き延びてる小さな塊にすぎない。

ただ、重要なのは誰がそれを降らせたのか、誰がそれを丸めたのかってことだ。

 

 

何を言おうが何を考えようが正しくもなければ間違いでもない。

 

 

そう、正しいとか間違いとかどうでもいい。

言葉の本質はそこじゃない。

最初から考えよう。

どのような事実も誰かによって語られた言葉にすぎない。

ここまではいい。

この上で、誰かというのは誰でもない仮の主語なんかじゃなくて、確かに誰かであることを見落としちゃいけないんだ。

言葉があるなら、必ずその前に語り手がいる。

ひとひらの紙片にさえ魂は宿ってるということだ。

 

 

という意見もまた数ある事実のひとつにすぎない。

 

 

それでいい。

別に正しくもないし間違ってもない。

でも、この事実と同じ音色、同じリズム、同じ色合いの事実は他にない。

それは優れてるとかそういうことじゃない。

誰が語るどのような事実も独特のそれらを持って然るべきということだ。

そして、そこに疑いようのない価値がある。 

 

 

という意見もまた数ある事実のひとつにすぎない。

 

 

こうして出来た事実の中には虚無の言葉も含まれる。

それで、この対話の意味とか意義とか、知ったことじゃない。

恐れ多くも喩えるなら、毎年咲いては散る桜の花びらと同じことなんだと思う。

すべては巡ってるというだけ。

ただそれだけ。

 

 

という意見もまた数ある事実のひとつにすぎない。

 

 

いずれにしても、これらのことはあくまで語り手に重点を置いた話だ。

事実が成立するには聴き手が必要となる。 

誰かが語りを聴くとき、語られた言葉に宿る魂はどこに行ってしまうのか。

巡ってればやがて何かしらの答えも出てくるはずだ。

巡ってさえいれば。