青い梟の輪郭

感じたことを括り直すための内的な語りや対話です。

『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』をプレイして思うこと

ゼルダの伝説の発売日は、夕方から泊まりで東京に行かねばならない日だった。

午前中に買いに行ってひとまず2時間ほどやった。

その時点で泊まりの準備をしてなかったのであまり集中できず、そう強くない敵をそこらへんの木の枝でなぎ倒しながら、やたら広いフィールドをリンゴ拾って走り回るだけのゲームという印象を得て、なんだかなあとスイッチのスイッチを切った。

 

東京で3日間を過ごし、帰ってきてからじっくりと向き合い直した。

はじまりの大地を飛び出して、うろうろしながらハテノ村にたどり着いた。

この時点でゲームの印象は180度変わっていた。

面白すぎる。

 

3歳でファミコンに目覚めて以来、それなりの数のゲームをこなしてきたつもりだが、

自分がこの世界の中に入ってる感がここまで強いゲームは本当に初めてだった。

 

ゼルダがなぜここまで没入しやすいのかは分からない。

ただ、ひとつだけ言えることは、自然環境が生きているということだ。

思ったことをそのまま言えば、ナウシカを初めて読んだときの感覚を味わった。

生きているというのは、別にグラフィックがリアルであるとかそういうことではない。

おそらく大切なのは、自然が全体でありつつ個であるかどうかだ。

実際に製作者がどのような姿勢で作ったのか知らないが、ゼルダの自然環境は確かにひとつの全体を成しつつも、草も木も石も風も雨も雷も何もかもがひとつひとつ生命を宿している。

この感覚は、比較されがちなスカイリムやウィッチャーにはなかったと思う。

それらの洋ゲーとの間には、西洋と東洋の自然観を反映するような大きな違いがあるのかもしれない。

少なくとも、アニミズムが根底に流れる日本人にとっては自然環境のいかに小さな部分も、個別に触れ合うことができるもの、もっと言えば、主体と客体の区別をなくして共に生きられる対象になりうる。

この意味で、ゼルダは日本人が作るオープンワールドゼルダ自体はオープンエアーとのことだが)の可能性を大きく開いたと言える気がする。

 

 

で、レビューみたいになってしまったが、本題はこれじゃない。

ゼルダを数十時間プレイしててあるとき突然に気が付いた。

フィンランド滞在時に世話になったホストファーザーのジョアキムが「ゼルダの新作に出てくる祠を作るぞ!」と言っていたその「祠」というのが今まさに画面を通して目の前にあるこれのことだと。

これは僕にとって大きな衝撃だった。

 

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(藁と土と水を混ぜてこねてるところ)

 

ゲームの世界では、その世界の自然環境を意味づける文化だったり生のパターンだったりを象徴する何かが、僕らにとっては空想的でありながらその世界にとっては極めて現実的で魅力的なものとして存在していることがある。

今作のゼルダにおけるそれは紛れもなく「祠」だ。

ジョアキムはおそらく、このことを感覚的に理解したうえで、ゼルダの世界の象徴にいち早く気が付いた。

それも、あの時点で流れていたであろう限られた短時間のプロモーション映像を見たというだけで。


泥をこねて自分の手で森に作ろうとすることも含めて、凄まじい感性だと思う。

 

でもこういう感性って生きていく上ですごく大切なんじゃないか。

その背後には、彼の衝動を優しく受け入れるような温かい環境や、外国人だからこその視点というものがあったことも無視できないが、そういうことも踏まえて、僕たちは感性を磨くということをもっと意識的にしていくべきなんじゃないかと思う。

まだうまく言葉に出来ないが、人が認知する自然とは何かとか、自然と出会う人とは何かとか、文化や宗教とは何かとかそういう話につながっていく気がする。

 

いずれにしても、今作のゼルダは素晴らしい。

数年前にラストオブアスをやり終えたときゲームもここまできたかと感動したが、

それとはまったく別の角度から、ゼルダもまたそう思わせてくれるものだった。

これだからゲームはやめられない。