青い梟の輪郭

感じたことを括り直すための内的な語りや対話です。

蛍と水

誰かと誰かが言葉のやりとりをしている光景に対して、「一対一で対話している」という表現だけが正しいということはない。

私の知るどのような声や言葉も誰かとのやりとりの中で私に根付いたものであって、環境から独立した私の中から突然に生まれてきたものではないことも踏まえたなら、「一対一」という輪郭は弱くなる。

ここでは、本当は誰の持ち物でもない複数の様々な声と言葉が行き交うということだけが起きている。

 

頭の中で鳴り響くそれも含めて、声と言葉だけを見ると現実はどのように表されるのか。

たくさんの蛍が夜の川辺を舞う光景が近いのかもしれない。

蛍たちは無秩序に舞うわけではない。

ある者たちは「あっちの水」になんとなく集まっては出てを繰り返し、またある者たちは「こっちの水」になんとなく集まっては出てを繰り返す。

ここで初めて「私」と「あなた」が措定される。

 

とはいえ言葉は常に出入りしているから、この区切りはとても不安定なものだ。

特定の蛍たちが一か所に凝り固まって動かなくなることもあるだろうし、すべての蛍がごちゃまぜに飛び交って境界がすごく曖昧になってしまうこともあるだろう。

「私とあなたが対話する」というのはそういうことでもあるんじゃないかと思う。

 

一対一だと息がつまることや、三人以上だとなんとなくうまくいったりすることは、これらのことも踏まえて考えてみるべき問題だろう。

蛍の気持ちになってみてもいいかもしれない。

二種類の水しかない状況と色んな水がある状況とでは気の持ちようが違ってくる。

蛍(=言葉)がのびのびとできる環境は、水(=私やあなた)にとっても気が楽なんじゃなかろうか。

新しい命(=新しい理解や解釈)ってのはそういう環境で生まれてくるんだと思う。

 

 

オープン・ダイアローグの話を聴いていると、人が意図的にどうこうして作り上げる世界というよりも、秩序がありそうでなさそうな自由で生命力に溢れた自然界がイメージとして湧いてくる。

なんというか、すでに自然はそれを知ってて体現しているんじゃないかと思う。

だとしたら自然は美しいばかりではないことも、オープン・ダイアローグに含まれなくてはいけないんだと思う。

それはありきたりな癒し空間なんかじゃない。

ときには激しく命がぶつかり合う場所でもありうる。

 

 

「今夜も蛍がきれいだね」というのは外から見た感想にすぎない。

蛍になったらそんな悠長なことは言っていられない。

生きなきゃ生きられないんだから。

あるいは蛍が集うそれぞれの「水」の気持ちになってみてもいい。

予期せぬ蛍がやってくること、同じ蛍がとどまったまま老いてゆくこと、いてほしかった蛍が出ていってしまうこと。

そのどれもが「水」の一生にとって大きな出来事となりうる。

 

それはすごく当たり前なんだけどすごく大変なことなんだ。

オープン・ダイアローグもまたそういうものなんだろうと思う。

 

 

(第5回 ナラティヴ・コロキウムに参加して)