青い梟の輪郭

感じたことを括り直すための内的な語りや対話です。

寝起きに散歩

皆がそれぞれに生み出した色んなものが、どのようなものであれみんなで共有して然るべきだという不動の前提がもしあったなら、作る過程を隠す必要も、作ったものを公開しようと努力する必要もなくなる。

最初からフルオープンな世界なら、何気なくごく当たり前に淡々と好きなことに没頭するだけでいい。

 

共有というのは、もちろん否定することではないけど、別に肯定することでもない。

そこに評価的な視線が入り込む余地はない。

ただそこにあることをゆるしてもらえること、見てもらえること、聞いてもらえること。

その上で色んな意見や感想が飛び交うこと。

その上でまた新しいものが生まれてくること。

そういうことだと思う。

 

 

しかし実際には、無条件に共有されるどころか、基準を満たさなきゃ受け入れてもらえないかもしれないという意味不明な前提があるので、公開するということ自体が作り手に労力を要請する。

結果的に、どのように公開するかというプロセスの良し悪しまでもが評価に晒される。

いつの間にか、公開の仕方を磨き上げることにだけ力を注ぎ出すようになる。

気が付いたら、「あれ、何を公開するんだっけ?」となる。

それでも金が入れば未来はつながるので、それでオッケーということになる。

このことは作品だとかに限らず、自分自身にもつながる。

今は「私」をなんとかして公開しなきゃ「私」は存在できないという世の中だから。

 

 

できれば早めに目を覚ました方がいい。

何もかもがゆるされた自由でオープンな世界が夢なんじゃない。

むしろそっちが夢なんだ。

 

 

つまり、趣味や悩みも含めて何かに没頭しない人間なんていないとすれば、すべての人が芸術家でありアスリートであり職人であり芸人であり研究者であるわけで、というのは平たく言えばプロフェッショナルなわけで、その成果や過程というのは好き嫌いは生むとしても、とにかくいったんは良し悪しに関わらず当たり前のように皆で共有すりゃいいじゃんかと、そう思うということだ。

 

そういう前提がちゃんと機能してたなら、プレゼン能力だとか競争力だとかいう胡散臭い力は微塵も必要なくなる。

それを高めるための訳の分からんペーパーテストや成績表なんてのは土に還るといいし、単なる競争疲れに病名つけて異常扱いする医者は白衣を脱ぐといい。

 

 

では、どうしたらオープンな世界に近づけるのだろうか。

例えば、そのための試みをしている学校だとかコミュニティだとかはすでにある。

それはまだ世間から距離を置いた別世界になりがちだけど意味あることだと思う。

一方で、個人レベルで出来ることは何かないものか。

確証はないけど、散歩したらいいんじゃないかと思う。

散歩は投稿目当ての目的ある旅とは違う。

あてもなく歩くというだけだ。

予期せぬ出会った色々な景色や音や言葉を好きに拾っては捨ててを繰り返すことで、次第に新鮮な空気が巡り始めるだろう。

おかしな夢は終わりを告げる。

 

 

とはいえ文化によっては最初からオープンで自由なところもあるだろうから、こんな妄想は日本人だから抱く憧れにすぎないことは明白だ。

でもそういうオープンな文化の中には、少なくとも日本人の身体に染みついてるレベルでの謙虚さだとかおもてなしだとかは根付いてないわけで、 

つまり、僕たちが謙虚さを保ったまま、みんなで自由に共有し合うみたいな世の中になったら、それってなんか新しい世界なんじゃないかなと思った次第だ。

 

日本人が散歩し始めたら世界が変わるぞ。