青い梟の輪郭

感じたことを括り直すための内的な語りや対話です。

括るということ(ベイトソンの認識論から考える)

【括る、輪郭を与える】

分割不可能な混沌から意味を切り取る。

例:私/あなた、これ/あれ/それ、人間/自然、食べられる/食べられない、

  内/外、1年目/2年目/3年目、春/夏/秋/冬、(目/鼻/口/耳)/顔

(この定義は、G・ベイトソンの『精神の生態学』を参考にしていますが、あくまで僕個人の理解です。) 

 

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ずっと前から、括るという行為に愛はないと思っていた。

 

人間も含めてすべての生きものは、混沌とした一体的な全体から“意味”を括らなければ生きていけないので、ただ単にそうせざるをえないだけだと思っていた。

 

反対に、括らないこと、輪郭をほどくことの中にこそ愛はあると思っていた。

 

例えば、自分にしか分からないような苦しみは、「あなたは~病です」と言われた瞬間にかき消される。

 

病名という輪郭は、個々人のユニークな経験を掬い取ることができない。

 

僕たちはそのことに違和感を抱く(はずだと思う)。

 

だから、――少し極端な言い方かもしれないが――、「協働するナラティヴ」や「オープンダイアローグ」といったアイデアが、病名などの強固な輪郭が支配する窮屈な世界への癒しとして生まれてきた。

 

目の前の対話を尊重し、今ここで小さな物語を共に築いていく。

 

そのプロセスは、無理に輪郭を与えることではなく、括らないこと、ほどくことの愛に支えられている。

 

 

でも、この理解が偏狭なものであったことに気が付いた。

 

 

よくよく考えてみれば、病名とは、

 

あなたのそのモヤモヤとした苦しみをどうにかしてあげたい。

私は私のことばしか使えないから、あなたのことばで語られるそれをまるごとは理解できないけど、私の経験と照らし合わせて、思いを巡らせて、少しだけでも分かりたい。

 

といった、極めて対話的な営みの結果だったのではないだろうか。

 

そう考えると、病名で強引に括ることが理不尽だからと言って、その人のことを括ろうとすること自体をよくないことと考えるのはおかしい。

 

むしろ愛があればこそ、人は括らずにはいられないのだ。

 

 

つまり、何が言いたいのかというと、

括らないこと、ほどくことの愛は、この前提を置いた上で考えられなくてはならないということだ。

 

ナラティヴやオープンダイアローグが前提としているのもまた、括らないことの愛ではなく、括るという愛なのだと言えるだろう。

 

 

 

生きることは括ること。

 

括ることが愛の為す業であるなら、生きものの本質とはやはり愛なのだろうか。

 

 

(2016.5.21 ベイトソンセミナー「輪郭はなぜあるのか」に参加して)