青い梟の輪郭

感じたことを括り直すための内的な語りや対話です。

2019→2020

さようなら、2019年

6月の蚕

8頭の蚕を飼育した。

蚕は色々な「気がかりな音」を発するので眠れない日が続いた。

純白の繭は見事な造形物だった。

成虫のメスの儚さは想像以上だった。

オスの強欲な姿には腹が立った。

あるメスは羽化して数日後に暴れ転げまわった。

とても見ていられるようなものじゃなかった。

手で包むと少し大人しくなった。

愛おしいと思った。

数時間後にそのメスは死んだ。

手のひらには卵が一粒あった。

 

6月末のアルバム

ヨウヒッコでオリジナルアルバムを作った。

作った勢いでフィンランドの巨匠宛てに手紙を添えて郵送した。

12月にお返事をいただいた。

2020年の秋にフィンランドに行くことになりそうだ。

 

夏以降のヨウヒッコ界隈

海外のヨウヒッコ弾きたちからメッセージをもらうことが増えた。

SNS上ではあるけど友達もできた。

これからヨウヒッコを始める人たちからもメッセージをもらうことが増えた。

一番多い質問が、「どうやってチューニングしてる?」

次に多い質問が、「それはどこ製の楽器だ?」

なんで自分に聞くのかと戸惑う一方で、メッセージをもらえることは光栄に思えた。

また、疑問をすぐに言語化して投げてくる感性には素直に憧れる。

分からないから聞いてみる。

これはたぶんすごく当たり前のことなんだ。

そして、ほめてくれるコメントは素直に嬉しい。

 

7月の茶道

ある暑い夏の日、裏千家茶道の体験に行ってみた。

その所作の美しさと謙虚さは想像以上で涙が出た。

動きの追求に終わりはないのだろう。

生徒用のプログラム一覧の密度に驚いた。

もう一回人生があってお金と時間があったらやってみたい。

今は見送ることにした。

 

秋の富山と青森と大阪

訳あってそれぞれの大学に訪れた。

青森に行った日は台風で帰れなくなり、おかげで地元の笛吹きの方々と交流できた。

とても温かい世界だった。

買ってきたねぷた笛は気長に練習しようと思う。

 

春夏の虚無

どうしようもない虚しさというのは、自分の内から湧き上がってくるわけでもなければ、外から不意にもたらされるわけでもないのだろう。

動けないことは、そうあるしか他にないようなあり方として生じるように思う。

それは「凪」のようなもので、一種の調和的なリズムなのかもしれない。

「凪」は、何かが「できない」ことによって定義付けられるリズムではない。

強いて言えば、むしろ「凪」の中でしか肯定されえないモノやコトがある。

「自己」をどのように世界の中に位置づけるのか。

あるいは、世界の中でどのように動き、音を発するか。

生物である以上、この問いから逃れることはできない。

逃れた気になっても、絶対に逃れることはできない。

だからといって、独りで答えを見出すこともできない。 

「凪」は、ひとつの答えなのだろう。

それを無理に振り払おうとすることは、生物をやめることに等しい。

合理的な技術や考えを駆使すれば、僕らはどのようにも動けるのかもしれない。

心地よい音も耳障りな音も支配下に置いて。

すべては「私」の意のままに。

でもそれは、蚕や茶道に見た「美」から遠ざかる何かだ。

途方に暮れるほどの儚さの中で、蚕は静かに天を仰ぐ。

凪、すなわち、虚無はそれを支える確かな土壌であるように思う。

 

冬のカメムシ

室内に紛れ込んだカメムシを排除したがる若者に苛立った。

世界を臭くしてるのはお前らだ。

カメムシは何もしていない。

好きになれとは思わない。

僕もゴキブリは苦手だ。

でもそこに居ることを真っ向から否定するのは違うだろう。

それと同時に隣に居る仲間ばかりを愛するのは違うだろう。

「理解できない奴は殴り飛ばしましょう」

そんな発想は少年漫画だけで十分だ。

 

こんにちは、2020年

曾祖父は尺八を吹く人だった。

僕はヨウヒッコを弾く人になりたい。

というのは演奏だけで食えるようになりたいということではない。

もちろん、もっと上手くなりたいとは思う。

ただ、技術云々の追求よりも、ヨウヒッコという楽器の精神性を追求したい。

純粋にそう思う。

これは闘いではない。

これは闇に投げかける光ではない。

これは、ナウシカの言葉を借りれば、闇の中のまたたく光だ。

これは特別に大げさな話ではない。

これは個人的な趣味だ。

何もかもどうせただの趣味だ。

でもこんな時代なので、何が正しいかなんて誰にも分からない。

中立は幻想で、偏向は現実だ。

個人的な関心ぐらいしか、信じられるものはない。

それが、「自己」をどのように位置づけるかという問いへとつながる。

今はそう信じるより他にない。

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本物、構成主義、動機についての対話#3

yurulogue.hatenablog.com

(上記からの続き)

 

おうむ?ナウシカの?……王蟲は、自分の機能を最大限に使って、粘菌変異体を苦しみから救おうとしてたじゃん。

 

確かに表面的にはそういうことが起きてたかもしれない。ただ、それは核心じゃない。重要なことは、そういう選択をする理由なんだ。つまり、動機ってやつ。これを見落としたら駄目だ。

 

核心とか動機とか、それこそ確認のしようがないものでしょ。

 

動機は、努力とか美的な核とかとは違う。まず、「本物の音楽」だろうと「本物じゃない音楽」だろうと、動機はそのどちらをも支えうるという意味で、概念としての懐が大きい。で、さらに、これが重要なんだけども、動機ってのは常に宛先ありきで、個人の内側で完結するようなものじゃない。関係の中にしかないんだそれは。

 

よく分からないけど、とにかく想定しなきゃ見えないって時点で、努力も動機も同じでしょ。

 

それはそうなんだけど、同じではない。その二つの間には、大きな壁がある。それも二枚ぐらいの分厚い壁が。

 

なんで二枚なの?

 

努力というレンズから動機というレンズに至るまでに、二回ぐらい思考の転回を必要とする、ような気がする。

 

ような気がするってことは、さらにもう一枚ぐらい壁があるんじゃないのそれ。

 

なるほど。その話おもしろそうだけど、面倒くさそうだから、今はやめとく。

 

確かに無駄にめんどくさそうだからいいよ飛ばして。

 

無駄ではないけどな。……まあとにかくさ、話戻すけど、例えば、幼い子どもが必死に鉛筆やラケットを握るときとか、天才科学者が寝る間も惜しんで研究に明け暮れるときとか、あなた達がそうまでするのは何故ですかって聞くと、大体みんな、自分の強い意志みたいなのをアピールしてくるわけだけどさ、あれ嘘だと思うんだよ。

 

いや、別に嘘じゃないでしょ。というか、話戻すとか言って話変わってるじゃん。

 

変わってない。とりあえず想像してみてほしい。意志とかいったん脇に置いといてさ、自分のやってることに対して、もし誰一人として興味を持ってくれなかったとしたらどうなのか、と。否定的な反応も含めて、何の反応も得られなかったとしても、それでもそれは自分の意志ですと言って続けると思うか?

 

人がどう思うかとか気にせずに、ただそれが好きというだけでマイナーな趣味に没頭する人だっているでしょ。あと、誰のために自分がそれやってるのか分かってない人とかもいるでしょ。

 

好きかどうかとか、惰性的かどうかなんてどうでもいいんだよ。重要なのは、どんな気の持ちようであれ、そのとき、その人が、本当にどのような宛先も見据えてないのか?ってことだ。実在する人物ではないとしても、過去の誰かとか、未来に現れるであろう誰かとか、目の前のモノとか、神とか仏とか、もしくは地面とか空とか海とか。もっと言えば、酸素とか、時計とか。あるいは、それを意識できていないこともあるかもしれない。でも、そういうのも含めて、色んなレベルにありうるどのような宛先も想定せずになんてことありえないと思うんだよ。で、その宛先に向かう方向性というか志向性みたいなものが動機ってわけよ。

 

……それって結局、すごく当たり前のことを言ってるだけじゃないの。

 

これがすごく当たり前のことだと思うんなら、「できる」ことだけに価値を置くのがちょっとおかしいことだと気付けよ。

 

いや、そうはならないでしょ。むしろ君の言ってることを前提にしたら、より一層「できる」ことに価値が置かれるよ。要は、親が褒めてくれるから子どもはラケットや鉛筆を握るとか、あるいは、手は持続可能性を求めてよりよいラケットの握り方を勝手に模索するとか、そういうことが言いたいんでしょ?それって結局は、「できる」ことを目指すわけじゃん。

 

半分は同意する。ただ、動機が予期してるのは、褒めてくれるっていう肯定的な反応だけじゃない。怒られるとかそういう否定的な反応も含まれる。手には血豆ができることだってある。

 

本物、構成主義、動機についての対話 #2

yurulogue.hatenablog.com

(上記からの続き)

 

「本物」から目を逸らしてる限り、進歩は叶わないよ。

 

「本物」を定義するのがその中身だという幻想に囚われてる限り、自由は得られない。

 

いやいや、もっと柔軟に広く世の中を見た方がいいよ。

 

面白い。そっちからはそう見えるのか。

 

どっちからでもそう見えるよ。

 

どっちからでも、ね。

 

あのさ、自分でも分かってると思うけど、君はつらくて面倒なことから逃げたいだけでしょ?努力して「本物」を体得することは、重要なことだよ。それによって誰かを助けることができるし、誰かを喜ばせることができる。そうしないことがいい結果を生むってことも無くはないだろうけど、基本的な方向性として、進歩し続けることはひとつの正義であり美徳だよ。

 

あのさ、自分でも分かってると思うけど、そういう考えはたまたま時代の主流になりえただけであって、この世の真理でもなんでもないんだよ。にもかかわらず、それによって無駄に苦労を味わった人たちがどれだけいるか考えたことあるのかよ。何より許せないのは、音楽とか、和菓子とか、いやもっと言えば、生きることとか、本来はどこまでも自由であるべき領域にその思想を当たり前のように持ち込んで判断しようとしてることだよ。助けることができる?喜ばせることができる?何かをすることができるかどうかなんて、そんな上っ面な基準はどうでもいいんだ。本当に大事なことはもっと別のところにある。

 

それは、歴史への冒涜だよ。できないことが悪いことだとは思わないけど、できることには価値が与えられて然るべきだよ。実際に、誰を喜ばせることもできない音楽には、どんな需要もないでしょ。それは別に悪ではないけど、価値もない。そういうものなんだよ。

 

つまり、何もできない奴は生きるなと、そう言いたいのか。

 

だからなんでそんな話になるわけ?

 

どうやったってそういう話になる。だって、できないことは罪なんだろう?

 

罪だなんて言ってない。ただ、できることに価値を置くことは間違ってないって言ってるんだよ。それで、そう考えれば、ひとりひとり何ができるのかを皆で探すことにつながっていくでしょ。仮に自分は何もできないと思ってる人がいたとして、その人のできることを一緒に見つけることができれば、そこには大きな意義があるし、共に生きることにもつながる。それはできないことから目を逸らすことじゃない。できないことを受け入れて初めて、できることを見つけることができる。これのどこがいけないわけ?

 

「一緒にできることを探しましょう」と言うことと、「これができないのは罪です」と言うこととは何が違う?まったく同じじゃないか。

 

君はさ、苦境に置かれた人のことを少しでも想像したことがあるの?例えば、君だって目が悪かったりするでしょ?で、その事実を認めて、よりよく見ることが「できる」ことを実現するために眼鏡をかけるんでしょ?今の君の意見は、つらい想いをしてる人たちのことをまったく考えてないよ。

 

何ができようと、何もできまいと、そんなことはどうだっていい世界ってのを想像したことはあるか?ときには眼鏡をかけるかもしれない。でも、それは眼鏡をかけないという選択と同等なんだ。どうしてそういう世界を見据えない?

 

そんな夢みたいな世界、本気でありうると思ってんの?あまりにも非現実的すぎるよ。第一、自然界にも反してる。昆虫の美しさは、機能と形態ありきのものでしょ?機能を発揮することができなければ、死ぬ確率も高くなるだろうし。何ができようとできまいとどうだっていいなんてこと、どんな生物も反対するに違いないよ。

 

つまり、他の個体に比べて上手く鳴くことができることを志向するスズムシとか、もしくは、上手く鳴くことができなくて苦しんでるスズムシとか、そういうのが存在すると思ってるのか。

 

存在するでしょ。

 

そんな程度のことに昆虫が興味を持つと、本気でそう思ってんのか。

 

いや、生存に関わってるんだから当然でしょ。むしろ、それが最大の関心事だよ。生きるために克服すべき課題と言ったっていい。

 

噂の発達課題ってやつか。……例えば、王蟲がただの一度でもそんなことに関心を持ってた場面があったか?

 

(以下に続く)

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本物、構成主義、動機についての対話 #1

よく「これこそが本物の音楽だ」とか言うけど、そう言うことによって見下される側が生まれてしまうのがつらい。

 

言わんとすることは分からないでもないけど、なんだかんだで「本物の音楽」に感動するのは確かでしょ。

 

楽器初心者のぎこちない演奏に感動することだってある。

 

そういう場合もあるだろうけど、ただ、より多くの人に愛される音楽とか、誰が聴いても讃えずにはいられない音楽とかってやっぱりある。

 

つまらん世の中になったな。

 

ずっとそういう世の中だよ。だからみんな「本物」を志向しながら頑張ってんじゃん。

 

…………「本物のなんとかが」って議論ってさ、基本的に、「誰がどういう状況でどうしてそれを本物と見なすのか」っていう観点が抜け落ちてる。恥ずかしくないのかね。

 

いや、別に抜け落ちてないよ。

 

まあ、特定の文脈においては、確かにあるんだろう。「本物の音楽」とか、あと例えば「本物の和菓子」とかってのが。でもそれらはぜんぶ文脈に依存してる。それそのものが絶対的に「本物」って話じゃない。だからそこを無視するなよと言いたい。

 

音楽も和菓子も、「よりよいハーモニー」ってのは確かにあって、それを構成するルールが昔から今の今まで伝統的に受け継がれてるという現実も確かにあるわけでしょ。前衛的なものにしても、ある意味では、伝統を前提にして成り立ってるわけだし。もっと言えば、そのハーモニーは生物や宇宙の仕組みにも通ずる可能性だってある。だから、それそのものが持つ質というか、力みたいなものはやっぱりあると考えてよくない?

 

いやだからね、そういう本質的な何かがあるという事実は、誰かが見て聴いて味わって初めて成立するわけよ。鑑賞者がいなければ、何も無いのと同じなんだ。早く気が付け。現実から目を背けるな。

 

いや、実際に多くの鑑賞者がいた上で、抽象的というか、神秘的というか、美的な核みたいなものが認識されるわけでしょ。それでいて、それらは実際の努力の上に成り立ってることが確かにある。努力は嘘をつかないよ。

 

美的な核が認識される?どうやって?ある奏者が「本物の演奏」をするとき、その人の内面世界が現れるとでも言う気か?そんなことありえない。奏者の内部を見ることなんてできるはずがない。

 

そんなのただの屁理屈じゃん。

 

屁理屈というか、とにかく、単独の何かが何らかの特性を宿してるという見方は危ないと言いたい。なぜなら、悪いのは個人だという話に行き着く。「お前の努力が足りない」とか「お前の才能がない」とか。

 

「本物」にたどり着くためには、努力と才能はどうしたって必要だよ。

 

それが差別と排斥の生みの親だと、なぜ気が付かない。

 

そんな話にはつながらないでしょ。たくさんの人たちの努力を否定するつもり?そもそも「本物」っていうのは何かを差別したりしないよ。もしそういうことが起きるなら、それは「本物」じゃないってことだよ。

 

何だそのナルシスチックな世界観は。気味が悪い。

 

一回、「本物」を味わってきたらいいと思う。そうしたらきっと分かるから。

 

……ああ、なんだかね、絶望的すぎて逆に腹を括ったよ。

 

(以下に続く)

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